昭和46年3月26日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受ける事ができる。みてると云う事がない。」

 大体神徳と云うのはどういう様な事を云うのであろうかと、どう言う様なものであろうかと。そんな神徳を受けたらどう言う事になるか。それは先の世までも持って行かれ、子孫までも残ると云われるが先の世までも持って行かれるとか、子孫に残るとかと云う神徳とはどういうものかと。そんな事を検討していきたいと思います。久留米の初代石橋先生は、神徳とは神の信用じゃと、神様の御信用じゃと仰って居られる。
 もちっと云うと信心そのものが神様の御信用を受ける為に信心をすると云う事になります。信心をすれば誰でも受ける事が出来ると仰る。誰でもと云うのは信心とは神様の御信用を受ける事の為に、信心をすると云う事になるのです。ですから何処までも神様の御信用を受けとかなければならん事になります。そこで神様の心を分かるとか教えを頂いて教えを行ずると云うか、いわばお道流で云えば実意丁寧神信心をさせて貰う。
 所謂実意丁寧に神信心さして貰う。それが神徳を受ける訳なんですけれども、果してそういう事が私共に出来るかと。例えば天地の心と云う神様の心が分からせて貰うて、神様のお心に添い奉る。やはりまあ云うならば天地の心と云うことは、天地の法則と云う事でしょう。ですからその天地の法則に則とった日常生活を、しかも実意を持ってさせて頂く、と云う事なんだけれど果してそういう事が出来るだろうか。
 私共は痛ければ痛い痒ければ痒いで、やはりそれこそ、掻いて貰うたりさすって貰うたりしたいのである。私共にはさまざまな情と云うものがあります。その情がやはり満たされなければ生きては行けないと、思う事ばっかりである。そういう中には神様のみ教え通りには、行く訳にいけん事がある。そこで私共が信心の稽古に依って神徳をうける、まあそういう事が完璧に出来る出来なければ、神様の御信用が頂けないと云うのではないと私は思うですね、信徳とは。
 あれは誰だったかなぁ誰からか聞きましたね、まあこの人は、非常にその、嘘を言うことが名人。それでもね、その人が来ると、みすみす又嘘を言いよると思うけれどもね、又、金なら金を借りに来るわけです。けれども、やはり貸さにゃ居られん様になってくる。そしてもう、あれからなら騙されたっちゃよかと云う様に思うと云うて、言われた話を聞いたことがあります。あぁ久富組のお父さんの話だったかね。いわゆる、久富正義さんのお父さんに当たります。
 何か近所にそんな人がおった。そんな話を聞いた事がある。中々嘘の名人だからもうまたこりゃ嘘を言いよると云う事は分かってるけれどもですね。何とはなしにその何と云うかね、人間的に矢張り何か良いものがあるとでしょう。もう是からなら又こりゃ騙しに来とるばいなと思うたっちゃね、もう是からなら騙されたっちゃよかと云う気がすると云うて、金を貸しござったという話を聞いた事がある。
 嘘を云うと云う事は、信用はしちゃないけれども、その他のものに何とはなしに、ほんなら信用がかけられておる訳ですよね。まあ私達の場合はそんなもんじゃなかじゃろうかと思いますね。神様と私共の場合。あれはもうろくな事はせん、ばってん、何とはなしに、あの氏子には、何をやったっちゃ惜しゅうなかと云った様な人があるだろうとこう思いますね。まあ私なんかそんな感じがするです。
 自分でもう一つもこれで良いとは思わない、と云うて是でいけないとも思わない。いわゆる自分の生き方と云うものを肯定もなからなければ、否定もない訳である。自分自身の生き方に。決してこれで良いとはさらさら思ってはいない。と云うてこれはいけない生き方だとも、さらさら思ってない。そういう私は難しい生き方がある。金光様の御信心とは、そういう信心だと思うですね。
 それでいて是で済んだとは思いませんと、是でいけないと云う事が分かって、すぐさっと改めていくと云うことは出来ないにしましてもです、そこのところを詫びて詫びて詫び抜いていくと云う姿勢。繰り返し又失敗をした、だから是はもう当り前とも思わない。人間だから、こんくらいの事は当り前と云う様な横着な心はさらさら無い。けれどもそれではいけないと云う事ではないと云う事。
 いわゆる私は御道の信心は肯定もなからなければ否定もない生き方。そういう生き方にです、私は御神徳というものは頂けるじゃないかとこう思いますね。どうでも御神徳を受けたい、あの世にも持って行かれると仰るし、可愛い子供や孫に残して置けれるのですから。それならです、ほんなら完璧な生き方と云った様なです、ほんなら法則に従った生き方、又は教えをそのまま、情を以って行じて行く云う程しのです、実意丁寧と云った様なものがです、そう完璧に出来るとは思われない。
 是は私自身自分の事をそう思う。それでいて矢張りおかげを受けていくと云う事はね、だから心に中には何時も、こんな事ではいけんと思うとりますと言う、是で済んだとは思いませんと云う気持ちが何時もある。それから同時にそれで済んだとは思わないけれど、これで良いとは思わないけれども、是でいけないと云う事はないとも思って居る。そこにね私は生身を持った人間の一つの業と云った様なものを感じます。
 けれどもそういう業を、云うならひっからいながらですね、おかげを頂けて行ける道なんです、金光様の御信心は。私自身それでもやはりおかげを受けて居る。だからそういう云うなら、肯定もなからなければ、その生き方に否定もないと云った様な生き方。そういう生き方を云うならば、道付けして下さる私は宗教だと思う。お芝居歌舞伎芝居ですね、私は外題を忘れましたけれど。
 そこのお店のいわゆる内儀家内とそこの店の番頭とが、ひょんな事から誤解が出来て、間違いが出来て二人が心易いと云う様な風に見られる事になる。所が実際はそうじゃないけれども、誰がみてもそうとしか思われない様な、いわば場面になって行ってしまう訳です。そこで仕方が無いそういう羽目に落ちて行って仕舞うもんですから、所謂両方とも潔白なんですけれどもそういう場面になって仕舞って結局二人が手に手を取って逃げるわけじゃないけれども、二人が逃げなければならない様な結果になる。
 昔はそういう不義貫通罪と云った様なものが、大変に重い張り付けに二人ながらなると云う程しの、重い罪が課せられた時代なのです。けれどものっぴきならないそういう事情になってしまう。その時にですねその芝居の場面に、二階から二人が逃げて行こうとすると二階の物干し台にね、こうあの夜干しがしてある着物が竿にこう通して干してある。その影を見てね、その二人がはっと息を詰めるような場面があります。
 それはね自分達の行く末と云うものがね、この様な形になるのではなかろうかと思う訳です、不安に思う訳です。いわゆるそれがその人達二人、例えば駆け落ちの形になるもんですから、実際は手に手を取ってじゃないけれどもです。だから結果に於いては二人が落ちて行きながら、一緒になる筋になっておりますけれどもね。結局は心中する事になりますけれども。私は皆さんに分かって頂きたいのは、その辺の事です。
 例えば夜干しがしてある竿に着物が干してある。その姿を見て、はっと息を飲む様なものを感ずる。自分達の行く末がこの様に、丁度張り付け台にも登った様な姿に、それが見える訳です。そしてそういう例えば、怖い恐ろしい気持ちに、何時も追われ通しに追われながら、落ちる所まで落ちて、心中すると云う様な筋なんですけどね。私の知った人に終戦後、非常にアメリカの兵隊と、心やすうお付き合いをして居られましてね、もうその時分にもう、それこそないものはないと云う。
 兵隊達が遊びに来るとジープでいろんな物を持って来る。持ちかけて来る。もうそこに行きますと甘いものなら甘いもの、布なら布もうどげなものでも無いものはないごとあった。そりゃもうちょいとあんた達は、ほんと極楽ち言うちから、私段は言いよりましたが、そればってん大坪さん、寝覚めにねほんとこげな目に合いよるが、こんど裏がピシャと来てからね、ほんとに難儀しなければならない様な事がありゃせんだろうかと思うて、そげな事を時々思うことがあるがのち云うてから、言いよんなさいました。
 そるけんであんた達はしっかり信心ばせにゃいけんよち云うちから、私は申しとりましたが、今丁度その方達のその場合は、丁度その裏が来とる様な現状のことになって居られる様です。娘さんはアメリカの兵隊と心安うなってから、アメリカに行かれましたし、たった一人になられてねお母さんが。ほんとにあん時あの人が言いよんなさったが、言いよんなさった様な事になってしもうた。
 今こげなよか思いをしよるが何時かは、これの裏が来はせんじゃろうかと云う、その思いなんです。実際は悪いことをしよる訳ではない。だから皆さんのお芝居の筋で言うと、実際は手に手を取ってと云う様な駈落ちじゃない。けれどもそういう風に誤解を受けて、どうにも言い訳が出来ん様なところにたち至ったもんですから、もうとにかく仕方が無いから、逃げるより他はないと言うて逃げる。
 けれどもそういう逃げ方をして居るからです。行く行くは自分達は張り付けにでんならなきゃならんと云った様な不安な、いわばおののきいっぱいでです、それからを過ごすことになる、結果がまたそういう事になってくる。不思議なことですよね人間所謂おかげの有るも無きも和賀心と仰るが、自分の心の使い方一つでです大変なそれがおかげにもなり、又はそれが大変な不幸の元になると云った様な事になって参ります。仏教の言葉の中に滅法界と云う言葉がありますね。
 法を滅する世界例えばさっきから申しますようにね、私共が生きて行くと云うその生き方の上にはです、云うなら教えを地で行く様な、法則に従うた間違いのない生き方、成程そういう生き方があるのですけれども、そうばかりがでけんのが人間なんだ。そこに私は人間の業を感ずる。ほんならそういう人間はおかげ頂かれんかと云うと、信心すれば誰でもおかげがどんなに巡りが深い者でも、業の深い者でもおかげは所謂神徳が受けられると教祖は仰って居られます。
 そういう人間が一人一人が間違いの無い、神様からお叱りを受けんで済む様な生き方が果して出来るかと云うと、実際は出来ないのだ。生きてみてそれを思う。生な体が云うことを聞かんのだ。ところがです私は滅法界と云う事の意味はどういう事か知りません。知りませんけれども、これは私流に解釈するとです、そういう例えば法則に従って行かなければ、天地の法則と云うものがあるけれども、その天地の法則を守らなくても、云うならば、お粗末御無礼が天地に対してあっても、嘘は言うても又は悪いことをしても、そういう法に縛られんで済む生き方。
 そういう法を滅せられた世界と云うものがあるとするならね、そういう世界に住まなければならない。素晴らしい良いことを滅法素晴らしいと云うでしょう。生きても死んでも、例えばあの世にも持って行き、この世にも残して置けれる。私は、滅法界と云うのは、私は極楽に通ずると思うですね。自分の心に一つの呵責と云うものが無い。例えば私は例を、今申しましたお芝居のその例でもそうです。
 実際は悪いことしてないでしょうが。けれども自分の心がそれこそ怖さにおののく様な結果と云うものがです、そういう悲しい苦しい結果に終わって仕舞う。例えばほんとにふがようして、娘さんが通訳に出よりましたから、アメリカ兵が遊びに来る。そういう例えば幸運の元に戦時中、戦後の物資の何もなかった時代にです、それこそジープで持ちかけてくれる様に、様々なその物資に恵まれ、だからこれがもし信心させて頂いておるのであったらです、どういう事になるでしょうかね。
 ほんとに信心もでけんのに、この様なおかげを頂いてと、もうただ有難い勿体無いでしょうね。別に悪いことをした訳じゃない、けれどもその寝覚めに思うことは、その方はこげん今、結構な目に逢いよるが、この裏が来だんせんじゃろかと思う心が、結局そういう事を呼んで仕舞った。だから神徳と云うのはですね、そういう時にです有難いなあ勿体ないなあと思えれる心。
 一つの罪悪感と云うですねこんな事しよるが、本当にこれが罪になりゃせんだろうかと云った様な事がありますよね私共の生き方の上に。その罪悪感が積もり積もって、罪悪になるのです。だからそういう時にです、私が神様のおかげでと頂けれる内容です問題は。私は高橋正雄先生の夫婦道と云うお書物を読ませて頂いて、もう相当お年を取られてからでしたけれども人間の持つ、いわば食欲性欲。
 そういう人間についておる欲、その特に性欲について、いわゆるあの様な大変な学者であられましたから、いろいろ書いて居られました。けれども最後の所に、この事については、今もまだ自分には分からんと云った様なことで終わって居りましたが、私はそれを読ませて頂いてですね、そんなもんだろうかとこう思うて、メモさして頂いたら途端にね、御性欲と頂いた。
 ははぁ高橋正雄先生が、ここんところを追求しておられて、まだ分からんでおられるとじゃなと思った事がある。例え、性欲と云うことであったら、それは場合に依っては、罪悪感が生まれて来る様な事にもなって来る。けれども、ほんとに神様に頂いたものとしてです、御の字が付くようになる。御性欲と云うことになる。おかげを頂いて有難いと云うことになる。それだけの違、信心をさせて頂きよると、そういう例えば様々な事の上にです、御の字が付けられる様になる。
 もうそこにはね、それが例えば罪悪であってもですよ、それに御の字が付けられる内容がでけた時です、もうそれは罪悪ではないことになる。おかげにしかならんのです。この辺のところがね、私は素晴らしいことだと思うで信心とは。所が中々ね云うなら、今日御理解頂いて、何事にでも御の字さえ付けりゃよかと云うちから云うたんじゃでけんのですから。内容が御の字を付けなければ居られない内容にならなければならないと云うことなんです。やはりそこには、稽古が要る訳です。
 私はいつもそういう例を取ってお話をします様に、三井教会の大奥様と御一緒に御本部参拝をさせて月参りをさせて頂いた時代。私と親先生と奥様と三人で、ほんの表を出かけられた途端に、新しい下駄の鼻緒が切れた。そしたらその婆しゃまが言われることがね、やあおかげ頂いたち言わっしゃった。だからそり、ちゃんとおかげ頂いたので済むわけなんですよ。ところがどうだろうか、はあちょっと今から旅に出ろうとしておる、その出がけにです、鼻緒がプッツリ切れた。
 こりゃもう何か悪いことでも起こるのじゃなかろうかと、例えば心の中をふっとこうよぎるだけでも、もういけんのです。それはたまにち言うていやいやそんな事はない、そんな事はないとたとえ思うても、もう心をよぎってるのだからその事が。ところがそこに、私は信心の稽古をさせて頂く者の尊さと云うものがあるんです。そういうものがさらさら、はあおかげ頂いとる、今日私が今御の字でもそうなんです。
 先生が御の字を付けさえすればと云われたけん、御の字を付けよるだけでは、心の中に一つのまだ罪悪感が残って居る上に、御の字を付けただけではいけないのである。そこにね、私は信心の稽古が要る。いや信心の稽古をさせて頂いておってです、信心の稽古させて頂いとるから、はあ信心頂いとって、あげな事ばっかりしよるち云うのが沢山おりますよ。それでもおかげ受けてるでしょうが。
 はあぁありゃ中々その手癖が悪かとか、又は女癖が悪かとかいうのもありますよ。それでもやはりおかげを受けて居りますよね。だから私はおかげだけではない、御神徳も受けられる生き方がある。人間のいわゆるそれは生な体を持っておりますから、何処にお粗末御無礼があるやら分からんじゃなくて、もうお粗末御無礼と感じる様なです、中にありながらもです。先程申します肯定もなからなければ否定もないと云う生き方。
 そういう生き方これで済んだとは思いません、と云うてこれでいけないとは思いません。そういう生き方のな中にです、そういう稽古をさして頂くうちにです、これで済んだとは思いませんと云うのが、いつの間にかこれで済んだとは思わぬ、それが少しずつ出来て来る訳です。そういう稽古が十年二十年、させて頂きよるうちにです、そこ御の字が付けられる様になり、そこおかげと思えれる様になるのです。
 ほんなら思えれるようになったからと云うて、もう立派な生き方になっとるかと云うと、決してそうじゃないです。そういう思い方が出来れる人の上にです。私はね神様の、いわば御信用が付いて来ると思います。御神徳とはそういう事。例えば出がけに鼻緒が切れたが、悪いことでも起こるのじゃなかろうかとこう思う心には、悪いことが起こってくる様なことになるでしょう。けれども是をおかげと頂ける所にはです、もう既にそこには成程悪い事が起こって来る前知らせじゃったかも知れない。
 けれども本人はそれを有難いと受けておりますから、もうそれは有難い結果にしかならない。そういう事をです、私は今日は滅法界と云う風に聞いて貰いましたですね。だからどの様な中にあってもです、滅法界という様な、滅法界と云う世界にはね、とがめると云うものがないとがめられる事が無い。自分の心は何時も楽である。いや楽だけではない、有難いなあと神様にお礼を申し上げる心だけしかない。
 それを一つの修練とでも申しましょうか、信心の所謂稽古なんです。させて頂く内にお互い滅法界に住まわせて頂く様なおかげを受けられる。滅法界を私はその侭、いわば法を滅した世界、まぁ極端に云うと悪いことをしても、とがめられない世界。そここそ私は極楽の世界だとこう思う。人間だから分からんなり悪い事をしておる事もあろう、分かってしておる事もあろう。
 けれども滅法界に住まわせて頂く時に。それを責められる一つの法と云うものは、効果を生じない事になる訳なんです。私は信心と云うのはねそういうその、言わば道をつけて頂くおかげ。今日は信心とは日々の改まりが第一じゃ信心とは本心の玉を磨くものぞやと、成程そうなんです。けれども磨いても磨いても矢張りそこに錆が出て来る。錆が出たからです、もうそこにはとがめられなければならんと云う思い方の中にです、おかげが受けられん事になって来る。
 磨いても磨いてもその隙間合間からですやはり錆が出て居る。けれどもその事ですらをです、御錆として頂かせて貰えれるおかげを頂けた時にです、それはもう御の字だけでおかげが受けられる。所謂それを今日私が滅法界いう風に話しました責められんで済む。だから皆さんここを間違えてですね、堕落の中にもやはり極楽があると、まぁ極端に云うと、そういう意味の事を言ったのですけれども、堕落せろと言う意味では有りませんよね。信心をすれば誰でも受けられると云われるのですから。
 信心をする者の全てが御神徳が受けられる、神様から御信用を受けられる、いわゆる間違いない生き方を全部が出来る筈が有りません。いやまぁ先ず誰でも出来ませんよ実際は。けれども修練ですその中にです全ての事の中に、有難い勿体ないとして頂いて頂けれる道がある。それを信心が無いとです、それはおかげであってもです。この様に物に恵まれ物資に恵まれて、ほんとに人は難儀しござるとに。
 自分方だけがこんなに恵まれて勿体ない。ほんとに有難いことではあると、お礼の生活が出来れば、それはもう、いよいよお礼に繋がる信心が出来るのでしょうけれども。信心が無いと、そういう時にでもです、又、この裏どんが来はせんじゃろうかと思う。そこんにきにね、信心の稽古をさして頂く者と、頂かない者の違いがある様に思います。今日は、ここのところ、全然違った角度から、御神徳と云うことについて聞いて頂きましたですね。 
   どうぞ。